が、実は音を聴くというのは、この選別して認識する作業のことだけではないのだというのを次の訓練で思い知らされることになる。音に名前をつけずに、ある音に集中せずに、自分のいる状況全体の音をひたすら「ぼや~ん」と長時間、聴くようにするのだ。たとえば車の音が聞えたとしても、「あ、車の音だ」みたいに音に名前をつけてはいけない。やってみれば分るけど、これはなかなか難しい。すぐになにか目立つ音に気持ち が奪われてしまうし、そうでない場合も「音に名前をつけまい」という意識ばかりが勝ってしまって、ちっとも全体を耳がぼや~んと受け入れるなんて状態にならない。が、何事も辛抱…というか、こんなことをやっているとそのうち眠くなってきて、で、その瞬間、それまでバラバラに意味として聴こえてきた音が溶け出して、音と音の境目があいまいな、なんだか全体がもやもやした状態になってくるのだ。「ん? 単に眠いだけ?」とか思ったが、ま、半分はそうなのだけれど、変な意識みたいなもんが切れたおかげというか認識力が低下したおかげなのか、とにかく言葉になるような音の聴え方とは別の全体がもやもやしたものが聞こえ出したのだ。
たとえば余韻のある音が消え入る瞬間によく注意すると、その音が背景のノイズの中にグラデーションのように溶け入るのを聴くことが出来るはずだ。風鈴でもシンバルのような金属でもなんでもいい。なるべく余韻が長いもので試してみるといい。序々に音が減衰していくところに集中して聴いてみてほしい。この余韻が消えて行く時間の中でゆっくり背景のノイズが浮かび上がってくるように聴こえるはずだが、そのとき余韻と背景の音が両方聴える、クロスフェードする時間の中で余韻と背景音が溶け合う瞬間を聴くことが出来るはずだ。この音の境目があいまいな感じが、さっき書いたぼや~んと聴く方法だと、全ての音に適応される感じになってくるのだ。本来は突出した音以外は大体はそれ以外の音との境目はあいまいで、実は人間の意識やら認識能力のようなものが、ある音だけを明確に聞き出して意味として認識しているってことらしく、だからこの意 味として認識する聴取方法ではないほうの、全体をぼや~んと聴くほうの脳内ソフトをフルに起動させて、意味聴取のほうのソフトをオフにしていくと、音の境目があいまいになって、なんだかすべての音が印象派的な感じで溶け出すのだ。慣れてくると遠近感すら溶け出してくる。大げさに言えば、今自分を取り巻いている音が、まるでAMMの演奏のような感じになるのだ。あるいはまったくナチュラルな状態でちょっとドラッグっぽい感じになったというか…。いずれにしてもこれは結構楽しめる…なんて思って意識が冴え出すとまた聴こえなくなったり…。このへんはちょと立体視にも似ている。
ま、相当面白い現象には違いないので、その後私はことあるごとに、一人でもこの「音溶かし」で遊ぶようになった。で、これをやると、いつもなら聴こえない音が聴こえてきたりして、集中して音を聴くときよりも、逆にかえっていろいろな音が聴こえてくるようになるのだ。無論ステージで聴こえてくる音も、それまでとはまったく変わってきて、たとえばPAの出す高周波のノイズやらパワーアンプのファンの音やら、照明のノイズが良くも悪くも演奏と同等の音として響いてしまったり、バイブラフォンのべダルを踏むキュウキュウいう音なんかがすごく美しく聴こえたりするようになったのだ。